第二回コラム 酒井 弦太郎(オーボエ)
- 広報係
- 2020年12月16日
- 読了時間: 4分
更新日:2021年1月16日
バハカン•フラグメンツ(Ⅰ〜Ⅲ)
酒井弦太郎
これらは私がバッハカンタータクラブで経験したことの小さな断片です。記憶や音について形に残っていませんから、読者の想像力をお借りせねばなりません。ただし、ここに並ぶ陳腐な修辞法はたった一度の体験に勝らず、是非とも皆さんとクラブでご一緒したいという思いばかりです。私を含め殆どはクリスチャンではありませんが、敬虔なバッハの遺した言葉と器楽の音楽によって様々な追体験もし、音楽観が広がります。心からの音楽の仲間と、50年に及ぶ沢山の卒業生の方々に学ぶ日々があります。
Ⅰ.
ウエノステイションの夕刻、その先の大通りに面し、なお静謐を護りつづけるところ、彼らの姿があった。クラブが下谷教会を訪れるのは、礼拝での演奏や、こうして定期演奏会が近づくと豊かなひびきのなかで、練習をしている。その日は早くもFreue dich, erlöste Schar(bwv30)5曲目アリアの合わせが始まっていた。
当時の演奏委員長“やまねさん”の指先から描かれていく音のシェイプは、相も変わらずよく風などがおこっている。そうして音楽が溢れ、あふれていく。彼らの音楽は高い天井へ舞い上がる、まいあがる、それらは集まって、降り注いでいる―この素晴らしい体験、私は高ぶる気持ちに正直になる、2階パイプオルガンの傍らに向かう…。
長椅子に腰掛けて身をのりだすと、彼らの様子が一望できた。しかしそれらをとりまく音と光の幻想に包まれ、やがてぼんやりと教会にもたれてしまう。仰げばオリイブ、羊、パンと魚など夕暮れを受けて、それはステンドグラスというのだがなんと美しいのだろう、私はずっとこうしていたかった…。
都会の喧騒をよそにイ長調のオブリガアド•フルウトは満ちていて、撥弦のぽつりぽつりと心のおと、深く、かろやかな鼓動が ことば を運ぶ―私はあの時間ほど幸せなものをしらない。

Ⅱ.
『あの日、車窓から溢れる聞き慣れない声の蝉が印象的でした。かたや降り立った朝の駅舎は無口で、いっそう研ぎ澄まされてゆく意識―。〔中略〕集まった方々は皆、親戚同士のような様子でした。これは年に一度、皆が道夫先生のもとに“帰ってくる”日なのだと知りました。あのとき、私もまた親戚になりたかったのです。
ホールには慎ましやかな空気が漂っていました。この感じこそカンタータの醍醐味ではないでしょうか。バッハと音楽に対して、等しく敬虔な眼差しを向けている空間のそれです。
誤解を恐れずに言えば、そもそも後からきた私が、そこが会場かどうかわからなかったほどに、盛大でないのです。それが本当に素敵でした。誰もがひたすらに、師との音楽のために集まっています。〔中略〕(OB会の)先輩方は私のためにいくらでも時間を割いてくださり、また道夫先生の一言、一身振り、一眼差し……それらの教えが鳥肌するほど深いものですから〔…中略〕
これほど夢中で音楽をするのが久しいことに思えて、その疲労感たるや爽快でありました。〔後略〕』
(小林道夫アカデミーin下田2019より)

Ⅲ.
日光にある真光(シンコウ)教会は夏合宿のこと。豪雨一過、教会より望む蒼空はゆらゆらと湿度を残しつつ、淡い寂寥感のなかにやけにくっきりと描かれた積雲。標高のためか目線を同じくしている。
これは教会を結ぶ渡廊下で私がみた祈りの風景である。かおりたつ土と森の味、レトロな壁面に小さな窓などあって、礼拝堂より旋律が聴こえる。慎ましく、哀しいともいい、たったひとつの眼差しが天を見上げるときの、たったひとつのしあわせともいうべき―。深まっていく通奏低音、くりかえされる言葉に、オオボエは十字架音型をかける。
それはクオニアムの情景として小さく切り取られ、今も大切にしまいこんである。
(Missa G-Dur bwv236 5.Quoniam)
……夜、クラブの仲間は宿舎の広間で過ごす。眠気とともにひとり、またひとりと部屋に戻っていく。その間、ときおりシャンソンや、ラヴェルの連弾がきかれ、困窮し廃部に手をかけようとした先代の話に涙し、突如として弦楽四重奏などはじまる。残った数人にオランダバッハ協会のマタイ受難曲は鑑賞され、深夜3時、四分休符ひとつによって歓び悶えている。何一つ知らない私は、古楽の道を歩く隣の先輩達の小さな日常から沢山のことを教わる。色づきはじめた東の空を眺めつつ露天風呂にまどろむ。広場は少し入れ代わり日本の音楽界の行く末を占いはじめる。帰りの車内、昏睡する。

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